夜はカレーとからあげ、ひややっこ、マカロニサラダ、味噌汁。飲み物は麦茶かジュース。
朝はタマゴと、ハムレタスきゅうりのサンドイッチにスープ、牛乳。
朝晩共に食べきれないくらいの量。
これは僕が実家に帰ったとき、親がよく作ってくれるメニューです。
これにお盆ならばスイカ、正月ならばお雑煮と餅がつくといった具合です。
プラス、どっさりのデザートとお菓子。 大体こんなかんじだ。
特にうちの母親は待ってましたと言わんばかりに料理などに腕をふるってくれます。当たり前のように。
そして、もうしつこすぎると感じてしまうくらい僕のことを気づかってくれます。
何がすごいかって、その気持ちの純粋さです。特に母。見返りなど微塵も求めてはいない。
自分のこと以上に自分の子供のことを考えているのだろうと思います。何歳になっても。
これが真心というものなのだろう。
おそらく僕は子供を育てるといったことはないように思います。
なぜなら、イマイチ子供を育てることを想像できないからです。
人生何が起こるか分かりませんが、そもそも想像もできないのだから、
現実に起こることはほとんどないでしょう。
それでは、服に対してそれだけの真心を持つことはできるだろうか。
いつからか僕は、自分のつくる服たち、そして人生をとおした服づくりそのものが僕にとって
子供のようなものなのだと感じていました。うちの親のように、子供に対して立派な親であるように、
僕は自分の子供である服、服づくりに対して真心をもって接しているのだろうか。
そして、その真心はどれだけ純粋なのだろうか、つまり、どれだけ服づくりに対して誠実であるの
だろうか。そんなことを考えてみました。
少しでも良いものにしようと、大小納得のいくまでやりきれているかどうか
これまで培ってきた自分のデザイン、手法に甘えすぎず、新しい発見を求め続けているかどうか
しっかり自分の服づくりを進化、成長させられているかどうか。
服に対してどれだけ正直でいてあげれているのかどうか。
どれだけ服のことをずっと考えているのだろうか。
誰も気づかないような進化でもかまわない。貪欲に求め続ける姿勢が大切なのだと思います。
それが自分にとっての正直なのだと思います。
そして、その進化の絶対値の集まった結果、とても満足のいく、つきぬけることができた
服がつくれるのかなと思います。
昔何かで読んだのか、誰かからか聞いた話を思い出しました。
大人になり親元を離れ、あまり実家に帰らない人は、実はもう親に会う機会があまりない
ということ。
僕は大体、一年のうちに2回お盆と正月に実家に帰ります。一年に大体2回。
あと親に30回~50回位は会えればいい方でしょうか。長生きしてほしい。
親の真心。
僕自身の親と比べると、残念ながら僕の服に対する真心はまだまだなのかなと感じます。
よく作品に心を込めてといいますが、僕はこれから真心を込めて服をつくるのだと、
胸を張って言えるようになろうと思います。
真心とは、何よりも純粋であり、誠実なものです。
そして、母親のようにどれだけ経とうがその心は変わらないのです。